伊賀にも愛宕山443.6m::つばや菓子舗五代目ブログ

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五代目の四方山不定期更新日記
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毎度おなじみの『伊賀の里山徘徊シリーズ』>いつから始まった?(^_^;)
今回の山は伊賀市南部、近鉄伊賀上津駅の北の三角点2つを繋ぐ山行。
アプローチは2012年3月22日に全線開通した広域農道「伊賀コリドールロード」を我が家から南下し、比自岐を越えた場所の県道683号線付近に駐車。この県道683号線、なぜか国土地理院の「ウォッちず」では破線で表示されているが、実際は舗装路である。

舗装路を少し歩いて道の右側の二次林に入っていく。
お察しのとおり秋の特別自然観察だ(^_^;)
でも、イキナリ目に飛び込んで来たのは目当てのモノではなく、初めてお目にかかった

ヤマナメクジ・・・10cmクラス(-_-;)
やっぱりキモいです(^_^;)

いかにも食用菌のように見えるシメジの一族?

老菌の裏がピンク色?ウラベニホテイシメジ?
いや、クサウラベニタケ(毒)かもしれない?
この手合いには手を出さないのが正解だ(-_-;)

今の時期、こいつがいっぱい

ドクツルタケだと思う
白くて可愛いけど手は出してはいけない。

あちこちウロウロとワンダリングしながら(^_^;)P325.6mの三角点に到着。

白杭に基本測量三角点と書かれている
あたりを見渡せども見晴らし無し。

かわりにあったのが、里山・低山に行くとおなじみの「イセ愛山会」の山銘板

「下河原のP」と書かれている。無名ピークなんだろう。

「イセ愛山会」が無ければ「イセ Aoki」あったりするが、ここには無い?(^_^;)

この手のプレートは、山で道迷いしているときには心強いのだろうけど、上の写真のように取り付けられていたり釘で打ち付けられていたりすると樹木が可哀想だと思うのは私だけだろうか?
あと、一枚だれかが付けていたら二枚目は取り付けずに持ち帰るとか・・・複数枚の掲示も山を私物化いているようでイタダケナイ(-_-;)

P325.6から南下して県道683号線に降り立ち、進路左手の尾根に取り付く場所を探る。
シカ道を見つけて登っていくと焦茶色のキノコ発見

これ知らない(^_^;)ケロウジ?

黄色いこれも知らない(~_~;)


植林帯を越えていくと照葉樹混じりの明るい二次林になった。

尾根道は明瞭で歩きやすい。

再び植林帯となるが踏み跡明瞭

少し進むと右手から支尾根の山道が合流。

なんと!その方向からハイカー?1名がやってくる。
こちらに気づいていないようで、私の前方20mほどを右から左へ移動

なんだか、そのオジサンの行動が気になって彼の後をついていくことにした。
すると山道は中部電力?の上野連絡線という高圧鉄塔(?)の保守点検道になった。


オジサンが頭上の枝をノコギリで切り落としているところに追いついたので話しかけてみた。
マウンテン◯イクのコースを整備しているとかで大山田支所から現在地に向かって林道や山道を駆けまわるとのこと。
御苦労さま(~_~;)

コース整備のオジサンを追い越したら第7号と書かれた鉄塔が進路右手にあった。

小腹がへったので鉄塔の基礎のコンクリに座ってパンとジュースを飲む。
近所の里山徘徊の時の昼メシはこれだけ。
いつものようにビールなんて飲んでいたら「急ぎで帰ってこい!」に対応できない(~_~;)
いたって短時間で昼食終了

保守点検道を下っていくと見晴らしの良い場所に出た。

八番鉄塔を見下ろして、ゆめが丘の工業団地が見える。
と、いうことは・・・ここからは北西方向が見えているから、正面の山は高旗山と笹ヶ岳
日当たりの良いヤブはサンキライとコウヤボウキに覆われている


尾根沿いに八号鉄塔に降りてきてしまった。

このまま行けば次の三角点に行けずに下山してしまう。

ヤブの薄くなった場所から右の谷へ降りていくと杉植林帯の広い谷。
たくさんの沢の源頭部が集まってくる場所だが先の台風でかなり砂が入り込んでいる。

谷を詰めていき、途中からP402南西尾根に乗る
檜の植林帯を登っていくと、出ました「イセAoki」のプレートだ!

山と日の出のイラスト入りだ(-_-;)
イセAOKIさん曰く、ここは喜福寺山402mなんだそうです。このピークの南東の位置に伊賀四国霊場第9番の札所の朝日山 喜福寺があるのですが、イセAOKIさんは山と日の出のイラストで朝日山の山号を表現したのだろうか?

そんな事を考えながらお茶をすすり、自宅から持ってきたミカンを食べて小休止。
でも、ズボンにダニの子どもがいっぱい付いているのに気付きダニを払い落とすのに躍起になる(-_-;)

気を取りなおして三角点443.6mへ再出発する。P402から尾根沿いに少し下った場所に墓石?というくらいの石が立っていた。

南東方向に文字が刻まれていたので観てみたが石が埋まっていて石の下部の文字が読めない(-_-;)

北山※
寛保二戌年
富士山権※
六月八日
◯△講

たぶん、富士山権現(富士浅間社の江戸期の別称)を祀っているんだろう。
調べてみると寛保二戌年は色々と厄介な年であったらしい。その1つは台風の影響での寛保二年江戸洪水 や 千曲川大洪水 伊賀のここでも影響があったであろうが石碑の年号日付が、建立の日時なら、台風の約三ヶ月前で関係ないし・・・

そして富士山絡みといえば、江戸幕府による富士講の禁令が出されている。要は「富士加持水と言われている霊剣荒鷹な水では疾病は治らない。富士山を盲目に信奉するのは禁止だよ」みたいなお触れが初めて出たらしい。→出典:富士講アーカイブ でも、これが出されたのは戌九月・・・富士山信仰が大流行したのが6月で、それが目に余る状態だったから9月に禁令が出たのか?

よくわからん(-_-;)

推測はこれくらいにして山登りを先に進めよう

檜の植林帯の尾根を登っていくのだが、私の嫌いなものが生えている。

それは、鹿に葉っぱを噛じられた棒っきれになった笹。

この笹にダニが、いっっ~っぱい付いているのだ(-_-;)

尾根がなだらかにってさらに2回アキレス腱を少し伸ばせば三角点443.6mに到着。

ここにも白い杭が立てられていた

そして周囲を見渡すが展望は無く、「愛宕山443.9m」のプレートが釘で檜に打ち付けられていた(-_-;)
このプレートはイセ愛山会でもイセAOKIさんでも無かったようだが、釘は植林された檜に悪影響を与えるのでは・・・

さて、このまま直進すると滝川ダムの近くまで行ってしまい、帰りが大変。
西に進路をとれば車に戻れるのだが、植林帯ながら下生えのヤブが深い。
P402の途中まで引き返せば二次林から池の方向に降りれるはずなのでP402へ戻る
250mほど来た道を戻って北西の二次林に突入。
しばらくすると踏み跡が明瞭な仕事道に出た。これで地図上の徒歩道に乗った。
途中の倒木にウスヒラタケを発見。

若そうなものをいただいて帰る。

こちらは干からびたカリカリのサルノコシカケ系のキノコ?

鱗が立っているかのごとしだ(^_^;)


山道は池の手前からP306の東を北上していくが私としては目の前に迫ってきた池が気になる。
池の東端に近寄るとカモたちが泳ぐ綺麗な野池だった。

この行けを時計回りに歩けば池の西端の堤に行けるのだが、反時計回りにある二次林が気になる!
と、いうことで池を反時計回りで歩こうとしたのだが、歩き始めるとすぐに湿地に阻まれる。迂回しようとすると、その湿地は昔の水田だったことが判明。その面積はかなり大きい。

水田のまわりを自然観察しながら歩くがあったのは「ベニナギナタタケ」だけ(^_^;)

このキノコ、食用菌らしい。by Wiki
でも触るだけで手が爛れると言われている「カエンタケ」に瓜二つなので触らないほうがいいだろう(-_-;)

結局、池の周りには何も見つからず、山道をテクテク下っていき、ススキのヤブにて自然薯のムカゴを採取。
お?何か赤くてオレンジ色の木の実?と近寄っていると

オオツリバナの実が割れていた。

広域農道に出て舗装路を10分あるくと駐車地に戻った。

ウスヒラタケとムカゴ少しだけ?!
うーん・・・


9:40駐車地9:45
10:35 P325.6m
10:47県道683号線
12:16 P402m
12:54 P443.6m12:56
13:36池東端
14:07池西端
14:35広域農道
14:45駐車地

山行時間 9:40~14:45
所要時間:5時間
最低標高:264m
最高標高:443.6m
距離:7.101km 沿面:7.185km
累積標高+478m-480m

ちなみにウスヒラタケは絹揚げ豆腐と一緒に炊き合わせ。
ムカゴは塩茹で。
即日、食べちゃった(^_^;)
| 山登り::伊賀の山 |
| 04:23 PM | comments (3) | trackback (0) |

コメント

はじめまして。富士講アーカイブ管理人の大谷です。
うちの記事をご覧いただきありがとうございます。

貴ブログの中であげられている「富士山権現」碑は、伊賀地方で富士信仰があったことを示すもので、大変貴重な写真であると認識しました。最後の行の未読の二字は「垢離」であるに相違なく、その名前からしても、富士垢離(ふじごり)という儀礼をおこなう修験系の富士信仰を示すものです。

挙げられているうちの記事で取り上げられているのは、江戸市中で騒いでいた富士信仰の一派ですが、立場としてはおそらくこの伊賀で行われていた(というより中部・近畿地方で行われていた)修験道に属する富士信仰とは異なるものです。例えるなら、チベット仏教と創価学会ぐらい離れています。

三重県で行われている富士信仰として、志摩地方など海岸沿いに行われる富士信仰の習俗が、研究の立場ではよく知られており、こうした山深い地域で行われていたという話は(奈良でもよくおこなわれていたことはわかっていますので想定はつくにせよ)ほとんど聞きません。よって、その痕跡が発見されることに驚きと喜びを感じます。

もし、こうした痕跡を他に見ることがございましたら、これからも発信していってくだされば幸いです。
| 大谷正幸 | EMAIL | URL | 2012/10/30 08:17 PM | h60x/e3w | 保留中コメント:0件

はじめまして、当ブログの五代目です。
コメントありがとうございます。
なるほど、富士垢離の修行の時に遥拝する富士山に見立てたシンボルがこの石碑なんですね。
と、いうことは石碑の文字が向いていた方向の伊賀市北山集落がこの修業をしていた(いる)のかもしれませんね。
またこのような石碑を見つけたら写真撮ってきます。

さて、私が富士権現に興味を示したのは、私も富士講の一員なのです(^_^;)

と、言っても、うちの地元では宗教的もしくは修験道的な目的や動機は一切なくなっていて、同世代の人間が集まって富士山に登る。それが同窓会のような組織になって、毎年恒例の親睦旅行を一度する。それだけです。#私は小遣いが少ないので休会中

この仲間づくりを当地では「オショジ=富士講」と呼んでいて、成人男性で年齢差10才前後が集まって一つのグループとなります。なので、オショジは地域に唯一ではなく、ひとつの地域にオショジが3~4組織されています。
また、隣の地域では同様の呼び方の「オショジ」がありますが、富士山と大峰山(山上ヶ岳)に登る事が入会資格だそうです。

元を辿れば、富士山を詣でた仲間が運命共同体になって、地域活動の団結力を高めたのでしょうね。
| 五代目 | EMAIL | URL | 2012/10/30 11:39 PM | RkWOqosk | 保留中コメント:0件

大谷です。

早々のお返事ありがとうございます。
石造物は、様々な理由で位置や向きが造られた当初のままではないことが多く、現在の情報量だけでは正しく判断いたしかねますが、近くに人がおぼれない程度の川があればそこで垢離が行われていたものと思われます。川に入るところに鳥居とか階段とか大日如来の像とかあれば、そこがそうであった可能性は高いと思います。

ちょうど下のような感じですが、…サムネイルがふっとんでいるのに今気づきました。直している時間はちょっとないので恐縮ですが、クリックした先に出る写真本体は生きていますので、ご覧いただければ幸いです。
http://kakugyou.la.coocan.jp/k051116.html

関西の富士講として残っている事例としての報告はあまり多くありません。ましてや講の一員であるという方は初めて見ました。ありがとうございます。

おそらく、「オショジ」という呼び方から、もともと垢離やおこもりといった精進の儀礼をしていたと想像できます。そして、「富士山と大峰山(山上ヶ岳)に登る事が入会資格」というのは、まさに修験系の富士講そのものです。この富士信仰においては、山上講の存在をメインとすることが前提であって、あくまで富士講はオプションです。

関西的な修験道の富士講を研究している人はごく少なく、ここ十年くらいの間に少しずつ目を向けられてはいますが、研究の進展ははかばかしくありません。かくいう私も関東で盛んだった別系統の富士信仰(角行系とよんでいますが、修験とは全く無関係です)が専門で、修験道的な富士講の実態をそれほど知るわけではありません。その一方で、こうして遺物が何かの拍子に人目に触れたり、形骸化しつつも講が残っているということがあります。講にしろ遺物にしろ、これからも伝えられて残されていってほしいと思っています。
| 大谷正幸 | EMAIL | URL | 2012/10/31 11:14 PM | h60x/e3w | 保留中コメント:0件



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