2024,11,19, Tuesday/五代目
右額にできていた脂肪腫を11月13日に外科手術によって除去してもらった。
翌日に傷口の消毒とチェックをしてもらったのだが、「1週間は洗髪や汗をかくような運動も控えてね」と医師に告げられていたので、汗だくの登山をしている山仲間との山行は自粛。でも、せっかくの晴れの日に家にいるのも・・・と、嫁さんと近所の霊山へ散歩にでかけた。
ウリハダカエデの落ち葉積もった登山道
山行日:2024年11月18日
久しぶりの霊山。
昼ご飯は津市の気になるお店に行きたいので朝から登ることにした。
山畑集落から田代池へ向かうと、かつての登山駐車場に近寄ることが出来ずに、林道子延田代池線の起点で通行止め。
この林道も現在は通り抜けができないらしい。
橋のたもとに駐車して歩くことにした。
車は代車の三菱RVRアクティブギア。
デリカD5がEGRバルブとブレーキ・バキュームポンプのリコールで入院。
11/23に退院。このリコール作業のついでにエンジンベルト3種交換と冬タイヤ装着もしてもらった。
↑この三叉路の電柱にコッソリ、登山口の標識が付けられていた
少し歩くと、通行止めの原因の場所にやってきた
重機が何台も導入されている。
この山林の伐採作業が終わるまで立入禁止にされているらしい。
かつての登山駐車場には伐採作業現場に放置されていた間伐材の集積所になっていた。
青少年センター跡のゲートは相変わらず閉鎖されている。
池の堤の周回路から登山口を目指す
相変わらず良い雰囲気の湖岸道路だが水の溜まりやすい場所はヌタヌタで靴がドロンドロンになってしまう。
旧管理棟の下にある湖岸ベンチ広場
朝日の暖かい日差しがあったので、ここで持参したスープとパンを食べて朝食とした。
腹ごしらえが済んだら霊山へハイキング開始
登山口には忍者トレイルの看板が設置されている。
前半は杉林の植林内
東海自然歩道の名物:擬木階段を登っていく。
二次林の水平道を歩き出すと右手に苔むした石積が残る炭焼き窯跡
黄葉を愛でながらイヌツゲとアセビが主体の森を登っていく
ヒトツバカエデ?
チドリノキ?
霊山寺からの登山道へあと少し、と、いう場所にトロロ昆布!
サルオガセがこないな場所にあったのね!
霊山寺からの登山道の交差点
ウリハダカエデが見頃
落葉が地面を賑やかにしてくれている
山上の遺構へ到着
まずは霊山名物の展望を・・・・
↑滋賀県甲賀町方面
この日は気温が低い上に北風が強くて、むちゃ寒い(-_-;)
伊賀市の南宮山・上野盆地方面
立派な土塁と笠取山のある青山高原と長野峠のギザギザ
久しぶりに来たので遺跡を拝む
もう少し気合を入れて保存して欲しいと思う(-_-)
この場所は810年~823年の弘仁年間に最澄が創建した寺院跡と看板に書かれている。
弘仁7年に嵯峨天皇から空海は高野山の地を貰ったように、最澄もこの地を嵯峨天皇に?
天正9年(1581年)の伊賀の乱で消失した本尊の代わりに作られた、この青銅製の聖観世音立像は延宝3年(1675年)に作られたとなっている。
台石の制作依頼者の名前として刻まれているのが永仁3年(1295年)平氏泰清。平泰清(柘植又二郎)の名は東寺百合文書に見ることができるが、それ以外の資料を見つけられない。
平氏泰清とはいったい誰なのか?
・・・などと看板をシゲシゲと眺めていたら、天井に地名と人名が刻まれた石が並べられているのに気がついた。
地名には新堂、柏野、楯岡、出後、富岡、甲野・・・と聞き慣れた地名と名前がチラホラと・・・・
その中で私の知人やお客様の家に問い合わせたところ、以下のプロフィールが分かった。
NSさん嘉永4年(1851)生まれ 没年昭和18年(1943)92歳
TSさん天保3年(1832)生まれ 没年明治39年(1906)74歳
現在のご当主の4代から5代前のご先祖の名前だと判明。
TSさんが先になくなっているので彼が亡くなるまでに作成したとして、この石は明治39年までに作成されたことになる。
またこのことは追跡していきたいと思う。
この日は北風がともかく寒い。
じっとしていると身体が冷えてくるので移動開始。
9合目付近の墓所跡?
せっかく紅葉シーズンに来たのだから、と、源流探索コースを下山ルートとした。
南峰へ行く途中の樹間から鎌ヶ岳と御在所岳
本峰と比べて2.2m低い南峰
ここで季節外れの花が咲いていた!
ヤマツツジ?蕾もたくさんついている!
他のヤマツツジの木にも蕾っぽいのが出来ていた。
長く温かな日が続いたせいで狂いすぎている!
昔、よくこのあたりに遊びに来ていたけど、木が成長したのか?森の空間が少し広く感じた。
相変わらず存在している大阪市の境界杭
大阪市は行財政改革のため、2014年3月に橋下徹市長によって施設は廃止。
(うえの写真は下山後に撮影)
その後、借り手も見つからず取り壊しもされずに放置されている。
不審火などで山林火災が起こったりするまえに大阪市によって更地にしてくれたほうが良いのかも?
P723をすぎて
下っていった鞍部を東に転進すると広い登山道
これが源流探索コース
目印とか特にはないけれど木道の残骸やアルミ製の橋などが点在
道は明瞭で放置されているのに問題なく歩くことができる。
基本的に途中から沢沿いの二次林で明るい印象の登山道
黄葉が楽しめたがカエデもあるので本来なら紅葉もある
でも、今年はまだ赤く色づいていなかった。
赤かったのはメギの実
何の実?
そしてここにも狂い咲きのヤマツツジたち
満開やん(^_^;)
蕾もたくさんスタンバイ中(・_・)
ヤブムラサキ
無事に汗もかかずに下山完了
霊山山頂から1時間35分で駐車地に戻った。
山行日:2024年11月18日
夫婦登山
リハビリ
周回
紅葉
距離:5.9km
所要時間:3時間28分
(うち朝食28分)
最小標高:518m(駐車地)
最大標高:765.51m(一等三角点:霊山)
累積標高:プラス・マイナス374m
7:00林道子延田代池線起点7:14
7:32湖畔ベンチ7:50
(朝食28分)
7:53霊山登山口
8:00西ルート分岐点(直進)
8:16炭焼き窯跡
8:32交差点
8:43霊山山頂9:07
(遺跡見物24分)
9:15交差点
9:25南峰
9:36南峰Ⅱ
9:49 P723
9:56検流探索コース分岐
10:29舗装路出合
10:42駐車地
天然キクラゲ
フグやんへの土産に持って帰ろうか?
まだまだ成長中?
昼ご飯は津市へ噂のお店へウナギを食べに・・・
ひつまぶしを注文したけど、鰻の身はたくさん入っていたけれど、思っていたよりも薄く細く、タレがやたらに甘い。肝吸い、ひつまぶし用の出汁も薄すぎて・・・値段が値段だけに・・・これでは・・・
あとマグロの刺し身に定評のある店だとも聞いてたのだが、出てきたのはビンチョウマグロ?これでは・・・
翌日に傷口の消毒とチェックをしてもらったのだが、「1週間は洗髪や汗をかくような運動も控えてね」と医師に告げられていたので、汗だくの登山をしている山仲間との山行は自粛。でも、せっかくの晴れの日に家にいるのも・・・と、嫁さんと近所の霊山へ散歩にでかけた。
ウリハダカエデの落ち葉積もった登山道
山行日:2024年11月18日
久しぶりの霊山。
昼ご飯は津市の気になるお店に行きたいので朝から登ることにした。
山畑集落から田代池へ向かうと、かつての登山駐車場に近寄ることが出来ずに、林道子延田代池線の起点で通行止め。
この林道も現在は通り抜けができないらしい。
橋のたもとに駐車して歩くことにした。
車は代車の三菱RVRアクティブギア。
デリカD5がEGRバルブとブレーキ・バキュームポンプのリコールで入院。
11/23に退院。このリコール作業のついでにエンジンベルト3種交換と冬タイヤ装着もしてもらった。
↑この三叉路の電柱にコッソリ、登山口の標識が付けられていた
少し歩くと、通行止めの原因の場所にやってきた
重機が何台も導入されている。
この山林の伐採作業が終わるまで立入禁止にされているらしい。
かつての登山駐車場には伐採作業現場に放置されていた間伐材の集積所になっていた。
青少年センター跡のゲートは相変わらず閉鎖されている。
池の堤の周回路から登山口を目指す
相変わらず良い雰囲気の湖岸道路だが水の溜まりやすい場所はヌタヌタで靴がドロンドロンになってしまう。
旧管理棟の下にある湖岸ベンチ広場
朝日の暖かい日差しがあったので、ここで持参したスープとパンを食べて朝食とした。
腹ごしらえが済んだら霊山へハイキング開始
登山口には忍者トレイルの看板が設置されている。
前半は杉林の植林内
東海自然歩道の名物:擬木階段を登っていく。
二次林の水平道を歩き出すと右手に苔むした石積が残る炭焼き窯跡
黄葉を愛でながらイヌツゲとアセビが主体の森を登っていく
ヒトツバカエデ?
チドリノキ?
霊山寺からの登山道へあと少し、と、いう場所にトロロ昆布!
サルオガセがこないな場所にあったのね!
霊山寺からの登山道の交差点
ウリハダカエデが見頃
落葉が地面を賑やかにしてくれている
山上の遺構へ到着
まずは霊山名物の展望を・・・・
↑滋賀県甲賀町方面
この日は気温が低い上に北風が強くて、むちゃ寒い(-_-;)
伊賀市の南宮山・上野盆地方面
立派な土塁と笠取山のある青山高原と長野峠のギザギザ
久しぶりに来たので遺跡を拝む
もう少し気合を入れて保存して欲しいと思う(-_-)
この場所は810年~823年の弘仁年間に最澄が創建した寺院跡と看板に書かれている。
弘仁7年に嵯峨天皇から空海は高野山の地を貰ったように、最澄もこの地を嵯峨天皇に?
天正9年(1581年)の伊賀の乱で消失した本尊の代わりに作られた、この青銅製の聖観世音立像は延宝3年(1675年)に作られたとなっている。
台石の制作依頼者の名前として刻まれているのが永仁3年(1295年)平氏泰清。平泰清(柘植又二郎)の名は東寺百合文書に見ることができるが、それ以外の資料を見つけられない。
平氏泰清とはいったい誰なのか?
・・・などと看板をシゲシゲと眺めていたら、天井に地名と人名が刻まれた石が並べられているのに気がついた。
地名には新堂、柏野、楯岡、出後、富岡、甲野・・・と聞き慣れた地名と名前がチラホラと・・・・
その中で私の知人やお客様の家に問い合わせたところ、以下のプロフィールが分かった。
NSさん嘉永4年(1851)生まれ 没年昭和18年(1943)92歳
TSさん天保3年(1832)生まれ 没年明治39年(1906)74歳
現在のご当主の4代から5代前のご先祖の名前だと判明。
TSさんが先になくなっているので彼が亡くなるまでに作成したとして、この石は明治39年までに作成されたことになる。
またこのことは追跡していきたいと思う。
この日は北風がともかく寒い。
じっとしていると身体が冷えてくるので移動開始。
9合目付近の墓所跡?
せっかく紅葉シーズンに来たのだから、と、源流探索コースを下山ルートとした。
南峰へ行く途中の樹間から鎌ヶ岳と御在所岳
本峰と比べて2.2m低い南峰
ここで季節外れの花が咲いていた!
ヤマツツジ?蕾もたくさんついている!
他のヤマツツジの木にも蕾っぽいのが出来ていた。
長く温かな日が続いたせいで狂いすぎている!
昔、よくこのあたりに遊びに来ていたけど、木が成長したのか?森の空間が少し広く感じた。
相変わらず存在している大阪市の境界杭
大阪市は行財政改革のため、2014年3月に橋下徹市長によって施設は廃止。
(うえの写真は下山後に撮影)
その後、借り手も見つからず取り壊しもされずに放置されている。
不審火などで山林火災が起こったりするまえに大阪市によって更地にしてくれたほうが良いのかも?
P723をすぎて
下っていった鞍部を東に転進すると広い登山道
これが源流探索コース
目印とか特にはないけれど木道の残骸やアルミ製の橋などが点在
道は明瞭で放置されているのに問題なく歩くことができる。
基本的に途中から沢沿いの二次林で明るい印象の登山道
黄葉が楽しめたがカエデもあるので本来なら紅葉もある
でも、今年はまだ赤く色づいていなかった。
赤かったのはメギの実
何の実?
そしてここにも狂い咲きのヤマツツジたち
満開やん(^_^;)
蕾もたくさんスタンバイ中(・_・)
ヤブムラサキ
無事に汗もかかずに下山完了
霊山山頂から1時間35分で駐車地に戻った。
山行日:2024年11月18日
夫婦登山
リハビリ
周回
紅葉
距離:5.9km
所要時間:3時間28分
(うち朝食28分)
最小標高:518m(駐車地)
最大標高:765.51m(一等三角点:霊山)
累積標高:プラス・マイナス374m
7:00林道子延田代池線起点7:14
7:32湖畔ベンチ7:50
(朝食28分)
7:53霊山登山口
8:00西ルート分岐点(直進)
8:16炭焼き窯跡
8:32交差点
8:43霊山山頂9:07
(遺跡見物24分)
9:15交差点
9:25南峰
9:36南峰Ⅱ
9:49 P723
9:56検流探索コース分岐
10:29舗装路出合
10:42駐車地
天然キクラゲ
フグやんへの土産に持って帰ろうか?
まだまだ成長中?
昼ご飯は津市へ噂のお店へウナギを食べに・・・
ひつまぶしを注文したけど、鰻の身はたくさん入っていたけれど、思っていたよりも薄く細く、タレがやたらに甘い。肝吸い、ひつまぶし用の出汁も薄すぎて・・・値段が値段だけに・・・これでは・・・
あとマグロの刺し身に定評のある店だとも聞いてたのだが、出てきたのはビンチョウマグロ?これでは・・・
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